• 【追悼】松本零士が遺した「SFビジュアル」「四畳半の青春」「アニメブーム」
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2023.02.26

【追悼】松本零士が遺した「SFビジュアル」「四畳半の青春」「アニメブーム」

仕事場でインタビューに答える松本零士さん 2015年、小林嘉樹撮影


■松本零士作品が牽引した70~80年代のアニメブーム

「マンガの神様」手塚治虫がそうであったように、松本零士もまたアニメに対しての情熱を幼少期からはぐくんできました(1945年、戦中に制作された国産アニメ『桃太郎 海の神兵』を、偶然にも同じ劇場で同じ日に、松本零士と手塚治虫は観ていたというエピソードもあります)。

初めてスタッフとして参加した1974年放送のTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』は、あらゆる意味でエポックな作品として今なお大きな影響を与え続ける作品となりました。初放送時こそ低視聴率に苦しみましたが、再放送によってアニメファンの大きな支持を受け、1977年にはTVシリーズを再編集した劇場映画がヒット、翌1978年にはオリジナル新作となる劇場版第2作『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』がさらなる大ヒットを記録したことで、日本アニメを取り巻く状況が変わり始めます。

『ヤマト』大ヒットの流れを受けて、東映動画(現・東映アニメーション)と組んでのテレビアニメの仕事も活発となります。1977年に『惑星ロボ ダンガードA』、1978年には『SF西遊記 スタージンガー』、『宇宙海賊キャプテンハーロック』、『銀河鉄道999』がスタート。中でも『銀河鉄道999』は、1979年に公開された完全新作の劇場版が大ヒットを記録。その後も続編『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』(1981年)、『新竹取物語 1000年女王』(TVアニメ:1981~1982年&劇場アニメ:1982年)、劇場アニメ『わが青春のアルカディア』(1982年)と続き、一躍松本零士ブームを巻き起こすこととなります。
松本作品に込められた「宇宙に対しての憧れ」、そして「浪漫=ロマンティシズム」は、SFブームの勢いに乗った多くのマンガ・アニメファンの心を捉えたのです。

松本アニメの時代を経て日本のアニメーションの幅は大きく広がり、さまざまな進化をくり広げ、現在では全世界を魅了する多種多様な作品が誕生してきています。手塚治虫が生前に書いた自叙伝『ぼくはマンガ家』では、「日本のマンガやアニメが海外で受け入れられるにはまだまだ壁がある」と記されていますが、今や昔の物語です。
最後に、あまり語られることは少ないのですが、松本零士先生は、稀代のマンガ資料のコレクターであり、1980年には『漫画歴史大博物館』(2004年に『漫画大博物館』と改題)という大著を編纂している(日高敏と共編)マンガ研究者でもあります。それらの功績も含めて、松本零士という存在がいなければ日本のマンガやアニメ、戦後日本のカルチャーは違った道のりを歩んでいたでしょう。

本当にありがとうございました。
「手塚治虫」の「塚」は「、」が付いた旧字が正しい表記。

アニメージュプラス編集部

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