• 続・『映像研』のマンガとアニメ比較。迫る納期と理想へのこだわり
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2020.02.14

続・『映像研』のマンガとアニメ比較。迫る納期と理想へのこだわり

続・『映像研』のマンガとアニメ比較。迫る納期と理想へのこだわり


 東映動画の長編劇場映画に『西遊記』という作品があります(『白蛇伝』『少年猿飛佐助』から続く第三作)。それは最初、手塚治虫が1952年から1959年まで連載した漫画『ぼくの孫悟空』を原作に、という東映側の意向からはじまり、快諾した手塚は積極的に東映に通うまでになったのですが、製作途中の段階で、「主人公・悟空の恋人・燐々を死なせる」展開を主張した手塚(富野由悠季監督が虫プロ出身だということがよくわかるエピソード!)と、その展開を受け入れなかった東映サイドとの意見の齟齬が契機となり(手塚の絵・デザインを動かしづらい=アニメイトしづらいものとした、現場アニメーターの意見も強かったようですし、さらに手塚の本業=漫画家としての忙しさも要因となった)、手塚は、結果的に原案構成そして三人連名の演出のひとりとしてクレジットされるに留まりました。

 初めて本格的にアニメに関われると、きっと胸をドキドキさせていた手塚は、さぞやガッカリしたに違いありません。

 その不本意がアニメ愛を募らせたのか、この翌年となる1961年には、手塚治虫プロダクション動画部が設立されます(この年には、いまでは分からない人も多いだろう高額納税者番付の「画家・漫画家部門」でトップとなり、個人クリエイターとして、人気のみならず、経済的成功においても頂点を極めたのです)。続いて1962年には短編アニメ『ある街角の物語』(38分)を発表、1963年正月=1月1日に国産初30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』がはじまるのです。

 この時手塚治虫、御年34歳。
 この1960~1962年の末までの間、東映動画との関わりが切れたわけではなく、『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』の脚本(北杜夫と共作)や、『わんわん忠臣蔵』の原案・構成といった形で東映作品に参加していますが、『西遊記』で舐めた苦渋はいかばかりであっただろう、というのがうかがえるアニメ制作への傾倒ぶりです。

 ここでも余談を挟むと​、1960年8月に公開された『西遊記』の、当然内容はすでに固まっているだろう5か月前に、手塚は悟空の恋人・燐々を主人公にしたマンガ『リンリンちゃん』の連載を開始し、公開後の同年9月で連載を終えました。ほんとうに、すてきに業が深い。手塚先生サイコー!

 またテキストが長引いてしまった。とりあえずこの時期の重要人物の紹介まではたどり着かねば!

 この『西遊記』の準備期間(1959年ころ)、手塚が苦渋をちびちびと嗜んでいた時期に、東映行脚に同行していた人間が二人います。一人は言わずと知れた若き日(21歳ころ)の石ノ森章太郎、そしてもう一人が当時の手塚治虫の漫画のアシスタントだった月岡貞夫です。

 はい、月岡貞夫。日本のアニメに興味があるなら、覚えておいて損のない名前です。『西遊記』以降も東映に残り、天才アニメーターとして才能を開花した月岡は、『鉄腕アトム』によって始まったテレビアニメの時代において後発となってしまった、東映動画として初のテレビアニメの企画を、誰よりも先に立ち上げました。それが、あのボバンババンボン♪の『狼少年ケン』です。同作では、原作者として設定&ストーリーを組み立て、キャラクター設計(デザイン)を担当しただけでなく、1963年11月の放送開始から第5話までは演出&原画も担ったのです(ちなみに同作第6話は高畑勲の演出デビュー作)。1963年は、テレビコマーシャル制作会社であったTCJが、10月に『鉄人28号』&11月に『エイトマン』とのテレビア二メ並行制作に打ってでた年。年頭に放送開始となった『鉄腕アトム』がいかばかりの利益を発生させたのだろううか。付記するなら、そんなハシッコかったTCJの現在が、『サザエさん』を制作中しているエイケンなのです。

 ここからはところどころ、私の憶測です。
 つまり、アニメーションが大好きだった、しかし生粋の個人クリエイター(漫画家)だった手塚は、「ワンフォアチーム、チームフォアワン」の集団工房である東映動画のスタジオに参入しましたが、『映像研』のような「幸福な瞬間」を味わうことが出来ずにおわってしまい(それはそうでしょう、資質も立場も表現方法もまったく違うのですから)、そのくやしさをバネに自らスタジオを立ち上げ、テレビという新しい発信基地を得て、アニメ業界の先頭に立ちました。大逆転です。気持ちはきっと「フフン」てなもんです。

 しかし、手塚的発想に惹かれ、その助けを続けていながらも、アニメーターとしての才能が師匠・手塚を​凌いでいた月岡が、東映動画の新しい血となったことで、それまでは、東洋のディズニーを謳って年に1作の総天然色長編劇場映画を柱としていた東洋動画――いや東映動画。『なつぞら』じゃないんだから。

 東映動画も変わらざるを得なくなったのです(ここまで長くなったので、いっそのことここにも余談。そういうわけで、ながらく名作・古典をベースにした東映の劇場映画が1966年、はじめて漫画原作にシフトチェンジするのですが、その最初は『西遊記』で縁を得た、しかし東映には残らなかった石ノ森章太郎原作の『サイボーグ009』だった)。

 かつては、虫プロがテレビのために始めたリミテッドアニメーションを「邪道」と思っている人も居たのでしょうが、リミテッドアニメーションとフルアニメーションはまったく違う表現ではありません。この違いは度合いの問題です。1秒間に24あるコマのうち、その「何枚」つまり「何分の1」に違う絵をいれるかという差なのです。

 当時の東映動画は、1コマ置きに(2枚に1枚)絵を変える、俗にいう2コマ打ち(24コマ分の12枚が違う絵)でしたが、動画重視の視点からは「電気紙芝居」とクサされることもあった虫プロは、基本、「3枚に1枚」の3コマ打ちでした。1秒24コマに、東映が12枚なら、その2/3の量の8枚。しかも30分枠のなかで1話が決着することを第一目的とし、物語内容が伝わるなら(視聴者が怒らない、あきれないなら)、動かなくてもかまわないと(仕方がない)という手法でした。

 アニメ『映像研』の第3話から第4話前半にかけては、いかに限られた時間のなかで「マシ」なアニメーションをつくるかという、工夫の話なので、もろにこの時代の二派の思想的(思想というより何を対象に欲望を感じるかという差異)対立と、そのなかで生まれた工夫、情熱と葛藤と妥協、そして諦念と反省が描かれていて、興味が尽きません。

7代目アニメージュ編集長(ほか)大野修一

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