――監督から見て、主人公のアーヤはどういうイメージですか。吾朗 僕らの世代や少し下の団塊ジュニアの世代って、ものすごく子どもの数が多かったんです。それに比べると、今の世代は、僕ら世代の半分か、それ以下の人数しかいません。そうすると、その子たちから見た世界はどう見えるんだろうって。そう考えたら、高齢者と大人だらけなんじゃないかと。自分たちの上に乗っかっている膨大な数の中高年がいて、若い人たちは少数派として生きていかなければならない。それは大変だなって思ったんです。
例えば社会人になって会社に入ったら、周りは中高年だらけ。そうすると頭数とか経験とか知識量とかでは勝てない部分が当然ある。声も大きいし数も多い、そんな大人たちを相手にまともに対峙したらペチャンコになっちゃうわけです。
だとしたら、そんな社会の中をうまくすり抜けながら生きていく方法はないか、となって、これは周りの大人たちを「操る」しかないんじゃないか――対立するのではなく、自分にいいように大人たちを動かして、すり抜けていくしかないんじゃないか、と。そうやって考えたとき、これはまさに、原作に描かれているアーヤだと。
――嫌味なく、いかにも「私は人を操っています」っていう雰囲気を出さずにやってしまえる。アーヤのキャラクターは、そのバランスが絶妙だったように思えます。吾朗 アーヤは人に対して意地悪するとか、誰かの足を引っ張るというようなことには興味がない子なんです。人を操って自分はただ楽をしているだけの子でもない。ベラ・ヤーガに魔法を教えて貰うためには手伝いもちゃんとやる。そういう姿勢があるからではないでしょうか。
――ちゃんと努力をしているんですものね。吾朗 必要とあれば徹夜もする。何かを手に入れるためには、行動もするし努力もする。常に「次はどうすれば良いか」行動しながら考え、自分から働きかけて欲しいものを手に入れる。そういうところも大事かなって思います。
――狡猾というよりも「逞しい」感じですよね。何より後ろ向きな姿勢が一切ない。観た人はアーヤを「特別な子」という印象を持ってしまうかも知れないですが、むしろ誰でもこうなれるんだよ、ということを本作は伝えたいのかなと思いました。吾朗 そうですね。人はずっと独りぼっちでやっていけるわけではないですよね。結局誰かと付き合いながら生きていかないといけなくなる。自分のやり方を押し付けるのでもなく、相手に従属するのでもない、互いの違いを受容していけるのが理想だろうと。そんな、価値観が違っていたり、利害関係のあるさまざまな他者に対応できる生き方を、アーヤを描きながら考えていました。怖そうな魔女の家に来ちゃったけど、メソメソしたり脱出しようとしてもしょうがない。ここでどうやっていくかを考える。その逞しさも大事だと思います。
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※このインタビュー完全版は、「ROMAN ALBUMアーヤと魔女」に掲載されます。