• 『映像研』の漫画とアニメを比較しながら、手塚治虫と宮崎駿を考える
  • 『映像研』の漫画とアニメを比較しながら、手塚治虫と宮崎駿を考える
2020.01.30

『映像研』の漫画とアニメを比較しながら、手塚治虫と宮崎駿を考える

『映像研』の漫画とアニメを比較しながら、手塚治虫と宮崎駿を考える


 原作マンガでは、見開きを挟んでの3p後の最初のコマで語られたセリフも、アニメではすこし変わっている。

 そのコマでは浅草と水崎が並んだバストショットで、ふたつのフキダシが添えられている。

 ひとつ目のセリフは「なんかとんでも/ない物が/できたんじゃ。」【5】になり、浅草の顔横におかれたトゲトゲのあるフキダシのなかにある。十中八九、浅草の発言であるが、漫画上の演出だと、当該コマに入っていない第三者の大声の発言という可能性はないではない。それだと本作の場合は金森氏になるのだが……可能性は低いか。

 そして次に、発言者を示すフキダシの一部から生えているトゲ(足)が浅草を指しているセリフとして「今 凄い画が/見えた気が/したんだけど。」【6】というセリフがあり、浅草の左側にいる水崎は、そのフキダシ=セリフを多少ポカーンとした表情で見上げている。

※【5】【6】(ビッグコミックス『映像研には手を出すな!』1巻34頁1コマ目)

 ではアニメだとどうなのか。【5】は浅草の声であるが、「なんか今、とんでもないところに行ったんじゃ」と、「できた」という言葉を回避しており、【6】は浅草ではなく、水崎の声で語られている。より印象深い先のシーンで「妄想の共有」を確定しなかったかわりに、この【6】でさらりと承認しているのだ。

 つまり、原作では漫画という手法上、多少は曖昧に、「幸福だけではないかもしれない」という「妄想」への皮肉を残しておいたものを、より明確に、動き・音で描写をせざるを得ないアニメのなかでは、とりあえず妄想パートを徹底的にアニメイトすることで観客の感情をコントロールしながらも、言葉の扱いには慎重に工夫を加える(例えばネーム【3】【4】が3人の声でシンクロしたりしたら、やりすぎ感が漂い、やすっぽくなった気がする)ことで、客観性を担保しているのだ。

 さすが、アニメーションという集団作業の現場で、『クレヨンしんちゃん』からメタアニメのような実験作までものしてきた湯浅監督。

 妄想が共有できた場合の悦びはいかばかりであるかを知りながらも、それがいかに困難で、いわんやそれが長期連続することが不可能に近いかまで、承知の助。すこしカメラを引いておきたかったではないのだろうか(邪推?)。

 スティーブ・ジョブズはいかに多くの人間と決別していったのか。
 幕末・明治維新でも、学生運動でも、どれだけ集散離合が繰り返され、暴力がまかり通ったか。
 同系列の妄想の集中、連鎖によってエネルギーが集中し、新たなジャンルやテーゼができるほどの爆発力を得るが、やがてその熱量は自然と分散していく。諸行無常は世の習い。

7代目アニメージュ編集長(ほか)大野修一

RECOMMENDEDおすすめの記事

RELATED関連する記事

RANKING

人気記事